2014年12月11日木曜日

2014年11月24日月曜日

IBM Centennial Film: 100 X 100 - A century of achievements that have cha...



100年以上トップ企業として君臨するIBMの歴史をみてみたい。
「貧民に墜ちた武士: 乞胸(ごうむね)という辻芸人 (河出文庫)」
江戸時代の賤民の中には、私がこれまで聞いたことのない乞胸や猿飼と言った身分の人がいた。猿飼は陰陽五行から馬を猿に守らせる習俗があり、武家の厩(うまや)で、祈祷をしていた専門集団であったという。乞胸(ごうむね)は、万歳や曲芸、踊りなどの大道芸をして金をもらった乞食の一種であったらしい。身分的には町人だったが稼業としては非人と同等とされた。
驚いたのは、乞胸と呼ばれた人々の多くが武士のなれの果てであったということだ。関ヶ原や島原の乱で禄を失った浪人のなかには、才覚のあるものは儒者や剣術の師範とかになった者や、商人として成功したものもいるが、貧しい辻芸人に身を落とし、「乞胸」として、徳川身分制社会の隅の方で生き延びた一団もいたという。
「あの家康や家光でさえ、武士身分は右肩あがりに繁栄すると信じて、しだいにしぼんで行くとは考えなかった。国替や取り潰しで禄をうしなっても、武士はすぐにつぎの就職先が見つかると考えていた。逆にかれらがいつまでもぶらぶら遊んでないように配慮した。武家屋敷に逗留したり、僧坊に無賃で泊まることを禁じて、再就職を早くするようにしむけた。こぼれ堕ちた武士に口に糊する方途をわざとあたえなかった。おおきな誤算が、江戸の浪人を困苦の巷に投げ出した。」
元は武士であったことのような人々も他の賤民と変わらぬ貧しい身なりで辻芸人などをして生き延びたのだというが、徳川身分制ではこれらの乞胸にも世襲の乞胸頭という者をおいて管理した。
また、時代劇によく出てくる虚無僧なども失職した武士たちで、禅宗の一派である普化宗の僧という半僧半俗の形で、尺八を吹き喜捨を請い諸国を行脚したが、明治に入り、托鉢を強要する品行の良くない武士団として普化宗もろとも廃止された。
この他、これも時代劇で出てきたけど、いったいどういう人達なのだろうと思っていた「鳥追い」と呼ばれる女性達の正体もわかった。鳥追い(とりおい)とは、正月の祝い各戸を回って鳥追い唄を歌う門付芸人のことだったが、後に編笠に縞の着物水色脚絆に日和下駄の女芸人として三味線を引いて門付をするようになったという。当時の身分的には非人に属したらしい。
明治になって四民平等となり、31万人の武士は一払いの金禄公債が下付され、継続的な収入であった禄を断たれた。その後、困窮する武士も多く出て、徳川時代に由比正雪の乱(慶安の変)が起きたように、明治維新で「浪人になった武士の反乱」である神風連、秋月、萩の乱が起き、西南戦争が起きた。
どの時代にも変化について行けず、取り残され、零落する人々がいる。封建時代に皮革製造者及び処刑担当の賤民達は新たな時代に入って、徴兵制により軍靴が必要になると分かると海外から技術者を呼んで、その製造技術を学び、新たな時代に対応した。
現代も、私達はグローバル化やアジア諸国の台頭という流れの中の大きな変化に対応していかなくてはならない。昔は良かったと懐かしむ人々はいつの時代もいるが、昔も今も人間が置かれた状況はそう変わらないのだということだ。

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2014年11月17日月曜日

チャイナ・ジャッジ 毛沢東になれなかった男 単行本 – 2012/9/7 遠藤 誉  (著)

2年前に失脚した薄熙来について書いた本。妻で優秀な弁護士だった谷開来の英国人ビジネスマン殺害とかのスキャンダラスな事件が絡み、読み物としても面白かったが、書き方が中国の公式見解に寄り添いすぎではないかと思う部分もあった。しかし、著者は、中国問題専門家として、中国中枢と通じ内部の情報を掴むためには、中国政府と良好な関係を維持する必要があり、そのためにはこういう書き方をせざる得なかったのだろうと好意的に解釈。
薄煕来は、経済成長に取り残され毛沢東時代を懐かしむ不満グループを扇動し支持を得ることで実権を得ようとした。しかし、彼のやり方は、文化大革命で大きな犠牲を払い、個人崇拝を排除しようとしている政府中枢の方針とは対立するものだった。
日本のマスコミなどの報道では、薄煕来は習近平などとの革命二代目間の勢力争いで敗退したという説明をしていたが、実は彼と中枢権力機構との間には、それより深い政策・戦略的な亀裂が存在していたのだ。彼は、本質を見誤り、政策ないしは思想的、かつ人格的にも、今の中国政府中枢の流れと相容れないタイプの政治家だったということだ。
中国共産党による建国以来、経済的な封じ込め政策により、世界経済の発展から切り離されて、自給自足状態だったのが、改革開放で真空状態に空気が入るように急激に経済が成長。急成長の副産物として利権が絡んだ不正がはびこるのは歴史をみればどこの世界でもあったことだ。薄煕来も巨大な富を蓄積した。しかし、どんなに汚職があり、腐敗した組織・社会でも自浄作用は存在する。
薄煕来事件は、単なる権力争い以上の、中国が自らの今後の行き方を明示し、方向性を正すために起こるべくして起こった事件だったのだろう。



2014年9月22日月曜日

シンガポールの奇跡―お雇い教師の見た国づくり (中公新書) 1984/1/1

私のシンガポールのイメージは、長年、東南アジアの経済的に成功した中国人による都市国家だった。しかし、シンガポールを訪れると、中国人による都市国家というより、極めて西洋化した非常に合理的に運営された多民族国家という印象が強くなった。街には中国語の看板やサインも少なく、ロンドンや米国の街にいるような錯覚さえ覚える。

この本は1984年に出版され、1970年代はじめから9年間シンガポール大学(1980年に国立シンガポール大学に改称)で教鞭を取ったアジア史家の故・田中恭子さんの体験記。現在の発展の礎となった1970年代から1980年代初頭のシンガポールの様子が興味深い。

当時はまだ中国語(シンガポールでは中国系の人は華人、北京語は華語と言うとのこと)を話す住民も多く、華人住民が設立し華語で教えた南洋大学も健在だった。

リー・クワンユー元首相やその息子の現首相リー・シェロンなどのような人たちはババと呼ばれる英語派で学校教育だけでなく、家庭内でも英語を話すエリート層。華語を話す中間層の人たちとは違う階級だったことを知った。

華語華人派は中国寄りの左翼とみなされ、彼らの設立した南洋大学(私立)もその後弾圧を受け『消滅』したという。その経緯は田中さんを敬愛する東南アジア研究者で北九州大学の田村慶子さんの『多民族国家シンガポールの政治と言語 -「消滅」した南洋大学の25年』に詳しい。(現在はその跡地に国立の南洋理工大学が設立されている。)

余談だが、この本は古本を購入したのだが、この本を買って、1980年代の中公文庫は綺麗なビニールカバー付きだったことを思い出した。


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2014年7月20日日曜日

黒川博行「国境」その他

私の好きな作家黒川博行さんが直木賞を受賞した。
「今までもらってなかったんだ!」と驚いた。

彼の作品で一番好きなのは「国境」。詐欺師を追って北朝鮮に潜入する大阪のやくざの桑原と建設コンサルタントの二宮の珍道中と冒険。読んでいて、家族が驚くほど一人で何度も大笑いした。

北朝鮮国内の描写は、どこかで読んだことがあるようだと思っていたら、学術論文のように巻末に参考文献が記載してあった。私は一時北朝鮮の現状に興味があって、いろんな本を読みあさったことがある。この本の北朝鮮描写の元ネタは私が読んだ萩原 遼 とか 石高 健次とか黄長燁(ファン・ジャンヨプ)その他の著作を参考にしているとのこと。同じ本を読んでも、ここまで想像力を広げることができる作家の才能を感じた。

この人は元々京都芸大出身で、美術品などにからむストーリーも面白いし、関西在住の作家なので、京都や大阪や奈良など、私のよく知っている場所が舞台になっているのも読んでいて楽しい理由だ。