2013年6月23日日曜日

横光利一作 小説「上海」


横光利一は1928年(昭和3年)に約1ヶ月間上海に滞在した。この小説は彼の上海滞在を機に執筆された長編小説である。1925年(大正14年)の五・三〇事件前後の列強と中国共産党、ロシア革命後のソビエト勢力、その他各国の諸勢力の動きを背景にしているが、主に描かれているのは上海の日本人社会。 興味深いのは映画『上海の伯爵夫人』(The White Countess)で描かれたような、ロシア革命で貧窮のどん底に落とされたロシア人貴族の女性たちの自暴自棄な生活や、身を売る以外生活の糧を得る道の無い当時の女性たちのか弱さ。男性が書いているから、そうなのか、本当に当時の女性はあれほど弱かったのか、分からないけど、簡単に苦界に落ちてしまい売春婦になってしまう日本人女性『お杉』やクラブのホステス『宮子』、癲癇持ちのロシア貴族の女で日本人ビジネスマンの愛人として暮らす『オルガ』。どの女性も男に頼るしか活きる術がない悲しい生活をしている。登場する男達は自分勝手でグロテスクだし、描かれている中国人達は救いようもなく貧しく惨めだ。内容的に当時の上海の日本人社会の事情や状況は理解できたし、上海には彼らを取り巻く各国の人々もいたのだな~という以外の思いは湧き上がってこない。内容の薄い時代物ドラマのような薄っぺらさ。同時期の1934年には上海における共産主義政権の崩壊を描いたアンドレ・マルローの『人間の条件』を読んだのは高校生か大学生の頃だったが、この横光の作品によりは引き込まれたし共感できたような記憶がある。

2013年6月9日日曜日

村上春樹 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」感想

村上春樹の最新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ。

カナダからの飛行機の中で読了。ミステリーのような謎解き要素もあってスラスラ読めた。主人公は精神分析のセラピーを受けるように過去にさかのぼって、今の自己の存在を形成した原点へ立ち戻り、自分が何者であるかを知る。色彩を持たず平凡な少年だと思っていたいた自分自身のイメージと友人たちが外部からみて感じていた自分の像は違っていた。(これは教養小説ないしは自己形成小説というジャンルに属する作品と言えまいか。)

人は、しばしば若いころの挫折や他人の行為によって傷つくことがある。そして、その生傷が癒えた後も、心には古傷のようなものが残る。そして、その後遺症と言えるようなもので、自由を失い、それ以前のように無邪気に前には進めなくなってしまっていたりする。怖くなったり、自信を喪失してしまっていたりして、傷を受ける前のような無垢さで生きることができない。傷つけた方は相手がそれほど深く傷つくとは思っていないのかもしれないし、悪気がなかったりするのかもしれないが、思いがけず深手を負ってしまうこともある。そして、たいていの場合、傷を抑えて棲み家に戻り、誰にも言わずじっと堪え、生傷が癒えるのを待つ。(私自身、同じような経験をして、今の自分がある・・・)

何年も経って、もう忘れているはずなのに、日々の現実の中で、夢や希望や自分に対する期待なども擦り切れ、現実と折り合いをつけながら、今を生きるだけで汲々とするある日、その古傷が蘇る。それらの古傷のいくつかが今の自分のあり様を形作っていることに気づくのだ。

人は、過去に立ち戻ることで、自分を再発見し、自分が何者であるかを知ることができる。主人公の36歳という年齢は、そのような過去が十分に蓄積され、やっと省みることができるようになる時期だ。半生と呼べるものを持つことのできる年齢。主人公は精神分析医のセラピーで、患者が過去にさかのぼり、心の問題の原点を探り出すように、過去の友人たちを訪ねることで、自らを省み、過去のわだかまりを解消することで、自分自身を発見し、人生の次の地平を切り開こうとする。

私がこの年齢だったころ、いやもう少し上だったかもしれない、30歳代後半から40歳になりかけたころのこと、毎日不思議な現象が起きた。突然、なんの脈略もなく、悲しくもないのに、涙が出てきて、大声で泣いてしまう。一人で、部屋の片付けをしている時、音楽を聞いてぼーっとしている時、料理を作っているとき、突然、背後から誰かに不意をつかれたように、涙が溢れ始め大声で泣きだしてしまった。そして、それは、必ず一人でいるときに起きたので、誰にも気づかれなかったし、強い感情の昂ぶりというよりは静かな心の動きがあった。どうしてあんな状態になったのか、今でも不思議で理解できない。その「症状」は、約一年ほど続いて、いつの間にか、起きなくなったけど・・・。(泣いたあとの私はいつも浄化されたように気分が良かった。)私は、あれは、私のミッドライフ・クライシスだったかもしれないと思っている。若さを失い、中年期に差し掛かった自分の状態を、明確に自覚させ、自分自身にスローダウンしろと伝えていたのかもしれない・・・あのころ日常となっていた何かの儀式のような「大泣き」は、あの時期、私が過去を省みて、重荷になっていた古傷や堆積物を洗い流し、その後の人生の軌道を正すために、必要だったのかもしれない。

村上春樹の小説の登場人物は、私にとって、親しみやすいバックグラウンドを持っている。私の好きな他の小説家、たとえば、中上健次の小説に出てくる登場人物と私の間には日常的な共通項はないが、村上春樹の小説のなかに出てくる男性にも女性にも、それほど大きな違和感を感じないのは、現代の普通の日本人だからだと思う。女性も、あるタイプの男性作家が描くように、極めて性的な客体としての存在としては描かれていない。彼女たちは、女性である私から見て、知的で自立している現代女性で、共感できる存在だ。

また、音楽や食事やコーヒーなどの嗜好品に関する描写も、今の都会に住む私たちの生活とかけ離れたものではない。(ちょっと気取っている感はあるけど・・・)現代の日本の日常と言えるのではないか? 私もジャズが好きだし、クラシック音楽が大好きだ。(因みに、昨日渋谷へ行ったついでにタワーレコードで、この小説に出てくるLazar Berman演奏のフランツ・リストの Années de pèlerinage - 「巡礼の年」 の全曲CDを購入し、今それを聞きながらこれを書いている。) 村上春樹が人気があるのは、現代日本で育った私たちの感性に寄り添った作品だからなのではないかと思う。 (私自身、村上と同じように関西の県立高校を卒業し、村上と同じ東京の私立大学へ進学した。) 実を言うと、これまで、余り村上作品を読んで来なかったので、これから少し読んで見ようと、昨日いくつか文庫本を購入した。

それにしても、なぜ、あれほど海外で人気があるのだろう? ドイツのベルリンの目抜き通りの大きな本屋には村上春樹コーナーがあったし、去年行ったベルギーやスウェーデンの本屋では「1Q84」がウィンドウに並べられていたり、平積みされていた。ちょっと前には、韓国のドラマを見ていたら、大学の同窓会で食事をしている数人が、村上春樹の小説について語り合う場面があった。そのうち、だれか村上の作品を読んでいる外国人に会ったら、感想を聞いてみよう。

それから、よくわからないのは、村上春樹がスコット・フィッツジェラルドを評価していることだ。フィッツジェラルド, 特にギャッツビーについての私の感想は下記。

レオナルド・デカプリオ主演で新しい映画が作られたらしいがまだ見ていない。以前のロバート・レッドフォードとミア・ファーローの映画は二回ほど見た。私には小説としてのギャッツビーの良さが分からない。中身のない浅はかな女に対する未練だけで、あそこまで頑張るのはなぜか? あれほどの執着は彼女一人への執着とは言えず、彼女が体現する階級への憧れからの執着?  物語では主人公を含めて、結局虚しく死んでいく二人の人間がいるけど、あの小説は隠れた体制批判なのか?  巨大な富を持つ特権上流階級に憧れ近づき、関わる普通の無産者の人間は、富豪たちの究極の無関心とエゴに、結局翻弄されいとも簡単にボロきれのように朽ちてしまう。 確かに、私自身、米国でとんでもない大金持ち達に接した事があるけど、彼らは「貧困を恐怖」すると言った。

ギャッツビーに出てくる富豪達は富豪である以外に全く存在理由がない。彼らの存在理由ないし存在価値は、相続した一族の膨大な富でしかなく、人間的には人格能力ともに貧弱で実に卑しい。ただ、その富は彼らの人間的価値の貧弱さや卑しさを補って余りある強大な力を持っているのだ。(だから、貧困は彼らの存在そのものを全否定するが故に、彼らは貧困を恐怖する。)

しかし、フィツジェラルドの小説のどこがそれほどいいのか、私は彼の作品に共感出来ないし、高い評価が理解出来ない。